慌ただしくも、賑やかだったお盆が終わりました。
普段は静かな外海府の村も、子供のはしゃぐ声が聞こえ、
「夏休み」を一緒に味わえるような、そんな和やかな雰囲気でした。
私が地域おこし協力隊となる前、何度か佐渡に旅行に来ていたのも
大抵、このお盆の時期でした。
その時、始めてみた盆船流し(精霊流しともいいます)には、
本当に感動したことを覚えています。

<盆船流し(木製の船)>

<浜には沢山の花が残る>
都会生まれの私には、お盆に帰る田舎というものが無く、
「お盆=夏休み」というイメージしかなかっただけに、
佐渡の人々が普段からご先祖様を大切にしている姿はとても感動的なもので、
お盆には家族で墓参りへ行くというシンプルな事も、羨ましいと感じるほどでした。

<アケビ製の精霊馬・・・シッポが・・・>
それぞれの家庭でのお盆が、どんな風なものであるのか知りたい・見てみたいという気持ちは、かねてからあったのもです。
そして今年、ある一家の盆船流しを見せていただけることになりました。

<岩谷口の浜>
最近では、毎年同じ木製の船を使い、ある程度海へ浮かせたら、
お供え物を流してかえってくるという家庭も多くなったと聞きますが、
岩谷口のこの一家は、毎年必ず、ワラで船を手作りします。

<稲ワラ製の船、盆花(ミソハギ)とともに>
「自分が佐渡汽船に乗っていて、船がひっくり返ったら嫌だよなぁ」と、
船に乗って見送られるご先祖様の気持ちになることも忘れません。

船を沖へ運び・・・

どんぶらっこっこ、どんぶらこっこ。
後は、風まかせ、波まかせの旅。

様々な理由から行事の簡素化が進むことは、誰にも止められない事かも知れません。
それでも、「行事」本来の意味や目的を考えれば、
簡素化することはできないと考える人々も、まだちゃんと居ます。
それぞれが大切にしているお盆を、今年も佐渡で過ごせたことは、
私にとって、嬉しいできごとでした。
おわり
コメント
コメント一覧 (4)
祖父が元気な頃は、毎年ごと木で船を作って、帆を立ててそのまま沖に流していたようですが、祖父が体調を崩してからは、1回使ったものを使い回していました。
今では祖母も私の家で暮らすようになり、夏に高千の浜で泳ぐこともなくなりましたが、お盆というと今でも鮮烈に思い出す光景です。
コメントいただき、ありがとうございます。
それぞれにお盆の思い出があり、ひとつの光景でよみがえる記憶も、それぞれにあるのだと思います。
慌ただしい現代人にとって、ひとつひとつの行事を丁寧にこなすことは難しい事なのかもしれませんが、これからもこの伝統が絶えることなく綿々と続くことを祈っています。
旧高千と旧外海府は、けっこう人の行き来もあるようで、生活様式も似ているようです。
私は、高校まで佐渡に居ましたが、卒業後はほとんど島外にいます。田植えと盆には帰省しています。
盆の様子は、石名ではすっかり昔と変わってしまいました。盆の船流しも、ほとんど木か発泡スチロールになりました。ちなみにうちでは発泡スチロールです。環境汚染とかは、年寄りには関係無いですね。昔は、ゴミは海に捨ててましたから。それに、船はゴミじゃ無いですからね。
子供の頃(昭和40年代)は、船流しは男の子の仕事。沖まで行って、お供えを食べ、よそのお供えも頂くのが楽しみでした。あまり沖まで行きすぎて、大騒ぎになったこともありました。
もう、石名には船を流す子供はいません。どこの家も、足まで入って(ふかると言います)、木の船なら中身を空ける、発泡スチロールなら流すだけです。我が家では、いい年をした私が流していましたが、今年は15日に帰宅したので、それも出来ませんでした。
岩谷口は歴史のある部落です。まだ、麦わらの船を作っているのは、素晴らしいと思います。アケビ(あくび)の馬も石名と同じだし、尻尾も同じです。石名では、猫じゃらしとは言わず、馬の尻尾と言います。
帰省しても、石名から出ることが無いので、石名の事情しか分かりませんが、自分(57歳)の親世代(戦前生まれ80歳前後)と団塊世代しか住んでません。これからどうなるんでしょうか?
こっちの生活もあるし・・・
ちなみに、船は、帆と舵を調節すると、ちゃんと西(沖)に向かって進みます。
だらだらと書いてしまいました。このサイトを楽しみにしてます。
佐渡から離れた場所に住んでいたとしても、日常の中で佐渡を想い、佐渡を感じているだけでも、素晴らしいことです。
たとえ島内に居ても、地元を忘れた生活になってしまえば身近とは言い難いものになってしまうとも思います。
季節の変わり目や、田植え・稲刈り・盆・暮・正月には帰省し、地元の素晴らしさを再確認するだけでも、とても意味のあることだと感じます。
今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。
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