小木町地区担当の奥野です。
私は今夏、期間限定で小木の常駐ガイドを務めています。

ガイドをする中でお客さんの反応が良いスポットがいくつかあるのですが、
その中でも上の番所と三味線堀、汐通しの堀切は外せません。
上の番所とは奉行所の出先機関のことで警備や見張り等を行っていました。
また、当時は積み荷の十分の一を税として徴収していたそうです。

↑今は看板が立つだけとなっているがこの一角に番所があった
ただ、この場所は海岸線から離れており、船の荷を確認するには不便そうです。
実際に案内をすると皆さんが同じ感想を抱かれます。
実は番所が建った当時はすぐ目の前が海でした。
しかし、1802年に起きた地震によって隆起が起き、海岸線は40mほど後退しました。
その後、不便になってしまった湊を何とかすべく“三味線堀”が作られます。

小木湊古絵図(文化年間作成、個人蔵、市指定文化財、一部拡大)
三味線堀のおかげで町は再び活況を呈し、最盛期を迎えることとなります。
後に堀は埋められ“浜町”と言われる地区が誕生しました。
花街として栄えたところで、300人もの芸者がいたと伝わります。
今でも地震前の海岸線の名残や堀の形をした通り、花街当時からの建物が残っています。
続いて紹介するのが汐通しの堀切です。
そもそも小木が港町として栄えたのは、2つの湾を有していたからだと言われています。
↑2つの湾の間に城山があることでどの方向からの風にも対応ができた
(出展:国土地理院の航空写真、1963年撮影)
ただ、急に風向きが変わったときには城山を迂回して反対側へ避難しなければなりませんでした。
そこで安全に避難ができるよう掘られたのが“汐通しの堀切”です。
1671年、城山の付け根を開削し、幅7間半(約14m)の堀が完成しました。
城山を除く一帯は泥岩でできていたため、このような工事が可能だったようです。
江戸から明治にかけての小木は、金銀の積出港に始まり、西廻り航路の寄港地として、また北前船の拠り所として絶えず変化をしていくことになります。
↑船乗りの信仰を集めた木崎神社に奉納された船絵馬
私はそんな小木の町を勝手に佐渡のベネチアと呼称しています。
ブラタ○リで紹介してもらえないもんでしょうか・・・
冗談はさておき、過去に思いを馳せるのは良いものです。
小木に来た際はぜひガイドをご利用ください!